アラフィフいろいろありすぎ

精神の病を抱えて人生の道を彷徨うアラフィフ。中年アラフィフが何をどこまでできるのか

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Photo No.165

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Leica M4 + JUPITER-8 50mm F2

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LINE着せ替えづくりで、方向性がうまく頭のなかでまとまらない。考えをすぱっと決定することが困難な状態なのかな

ちなみに着せ替えのボタン(LINEの下に出てくるHOMEとかNEWSとか)は、こんな感じかなあ、と描いてはいるのだけど

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文字はかなり小さい。でもどうせ、下の方にカタカナで勝手についてしまうので、飾りみたいな感じでいいのかな、とも思っている

上記の画像は選択していないときの画像で、選択したときはイチョウの葉に変わるようにしようかな、なんて考えていて、どうするか悩み中

いろいろ精神的に落ち着かないのだけど、こればかりはどうしようもない。乗り越えるしかないのかな、と

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そういえば、先日からU-NEXTのNHKオンデマンドで「龍馬伝」を観ていたのだけど、昨日ついに最終話48話まで観終えた。ギリギリだった。21話まで観たところで、突如告知が表示されて、残り3日で配信終了とのこと。一日10話くらいずつ観て、何とか完走した感じ。最初はなんで配信終了なのか気づかなったのだけど、伊勢谷友介大麻所持で逮捕されたのが理由だった。作品に罪はないので、巻き添えをくらうのは非常に困るなあ、と思ったのだけど、世の中にはいろんな意見の人がいるので仕方ないのだろうか…。ちなみに龍馬伝には、覚せい剤で逮捕されたピエール瀧、反社会勢力のパーティー闇営業で問題になった宮迫さんが出ている。個人的に好きか嫌いかは別として、みんな素晴らしい演技をしている。いい作品だけにお蔵入りになってしまうのが残念だなあ、と僕は感じる

例えば、日本の文豪にも悪い言葉で言えば「クズ」と言われている人もたくさんいる。太宰治芥川龍之介石川啄木、などなど…しかし生まれた作品と作者の人間性は別物であるわけで、僕は気にしないほうだけど、それを気にする人もいればそうでない人もいる。それを一方の意見が社会で力を持ち、他方を圧倒するという図式は、自分にはどうも馴染めない。ということは、僕自身がそもそも社会に馴染めない類の人間なのかもしれない、などと思ったりする

まあ、僕の考えはかつての筑紫哲也氏がよく語っていた「多事争論」という言葉に近いかもしれない。できるだけ多くの事をできるだけ議論したほうがよい、という事なのだけど、今この社会でどこまでこの「多事争論」がなされているだろうか、という気がする。例えば政治の問題。桜を見る会もそうだし、森友もそうだし、加計学園もそう。議論すべきことを本当に議論しているのか、見えない。黒川検事長の時もそう。どこかで決められ、本質的な議論が沸き起こると議論といえない言い訳答弁に終始した森大臣の話は記憶に新しい

…なんか話が違う方向に向かってしまった。まあ例えば殺人などの犯罪を犯した人が出演していたドラマを観たいか、と問われれば、確かに微妙な気持ちにもなる。もちろん覚せい剤所持や大麻所持は、現状、日本では犯罪であるわけで。ただ、それを観て気分を害する人が多数いる、ということなのだろうとは思うのだけど、どうも最近は「のちのち問題になったら面倒だから、なかったことにしよう」という消極的な方向のような気がするのだ。そこに本当にしっかりした議論があるのかな、と

でも、自分も微妙な気分になる、というのはわかるので、仕方ないのかな、と思いつつ、でもなんか腑に落ちない、というモヤモヤした気分なのだ

今日の雑感終わり

今日のメンタルポイントは50点。ギリギリ合格点